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NO.797 2023.11.26

「一粒の麦となる」

 

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。(ヨハネ福音書12:24)

 

前、宮崎英二兄の召天式を行いました。突然召されたことで、教会の多くの方々が深い悲しみを覚えました。19日の日曜日には礼拝後、兄弟姉妹と偲ぶ会を開き、兄弟の誠実な人柄や信仰の姿を思い起こし分かち合う時を持ちました。また同時に、ひとりひとりが兄弟の歩みを思いながら、自分自身の信仰の有り様を省みる時となりました。
さらに宮崎兄の信仰の証しは、今また新たな福音の扉を開きつつあることを覚えたいと思います。葬儀に参加されていたご親族が教会の皆様の優しさや信仰に触れ、心が随分と開かれ、奥様の佐恵美姉に感謝の意を伝えられました。またラインでつながることができたそうです。また佐恵美姉のお兄様ご夫妻も信仰に対して心が開かれつつあります。
そればかりか、宮崎兄がずっと祈って来られていたご夫妻の信仰が回復され、教会に復帰されるようになりました。またある兄弟は宮崎兄が担っておられた信仰の働きを継承したいという願いが起こされています。そのほかにも多くの兄弟姉妹の心の中に、神様にお仕えすることはどのようなことかがを改めて示されていて本当に感謝です。宮崎兄は、決して目立つ方ではありませんでした。てんかんという病を抱えながらも、ただ忠実に、誠実に、神様に従っておられた姿に、信仰者のモデルを見出すのです。
イエスさまは「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」と言われました。これはイエス様ご自身のことを言われています。イエスさまは一粒の麦となって、十字架に架かられ死なれました。そのイエス様の死がなければ、私たちの罪は赦されることはなく、闇の中に沈んでいたことでしょう。しかし、イエス様が私たちの罪を負ってくださり、一粒の麦となられて死なれたことで、私たちは救われ、多くの実が世界中に結ばれるようになったのです。
一粒の麦となって死ぬとはどういうことでしょうか。それは第一に、自分自身を放棄することです。誰しも自分の願いがあります。自分のこだわりもあります。主義主張もあるでしょう。それらを手放すことです。イエスさまはご自分を手放されました。その究極がご自分のいのちを手放し、捧げることだったのです。
私自身振り返る時に、自分の計画や思惑を優先してしまうことがあります。しかし、自分に死ぬとは、そのような自分自身の思いを神様にささげることなのです。もう一度、神様の願いは何であるかを深く思い返しながら、神様に従う者になりたいと思います。自分の思い通りになることが素晴らしいのではなく、神様のご計画がなることが一番大切であることを覚えたいと思います。
宮崎兄はご自分の病気の癒しをずっと祈っておられました。そして随分と症状は改善され、神様の働きができるまでに回復されました。しかし、彼が願っているような完全な癒しには至らなかったのです。しかし、彼はそれを受け入れ、いやその病があるゆえに、弱い人たちの為に祈り、心を配っておられたのです。そして神様はその弱さの内に完全に表れてくださいました。
自分の強さが神様の働きの邪魔をしているかもしれません。神の前に砕かれ、一粒の麦になって自らを捧げるとき神様の御業が現わされることを信じようではありませんか。その時豊かな実を結ぶのです。

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