「胸襟を開く」
「…私たちの心は広く開かれています。…」(Ⅱコリント6:11-13)

会社の人間関係がこじれて悩んでおられる方と先日お交わりを持ちました。会社の待遇の悪
さ、同僚の無理解さを指摘されました。自分自身が会社の中で孤立して浮いてしまっているようでした。話していると徐々にエスカレートし、「こんなに苦労しながら頑張っているんですが、家に帰ると今度は家内が色々な愚痴を言ってくるんですよ。少しは自分のことをわかってくれよといいたいですよ。生きる気力までなくしてしまいます。」確かに彼の辛さは痛いほど伝わってきました。彼の口からは愚痴と不満と不平しか出てきませんでしたから少し視点を変えようと思い、尋ねてみました。「会社の方はあなたのことをあなたが思うほど十分に評価してくれないんですね。どうですか?仕事中に何か改善すれば、少しは自分への評価が違うのではないかと思うようなことはないですか?」「無いですよ。これ以上どうしろというんです。問題は私ではなく、会社なんですよ!」彼の感情を刺激してしまい、少し怒らせてしまったようで、反省させられました。
しかしもし同じことを自分に問われればどう反応しただろうと考えました。特に自分が気にしていないことであれば聞き流すことができただろう。でも、自分が気になっている弱点や弱み、また触れられたくないことに触れられると、きっと同じように感情的になって声を荒げたり、それを否定したくて語気を強めてしまうのではないか。
人は傷に触れられると痛いものです。指摘が当たっているほど悲鳴をあげたくなります。でも、いつかは自分の弱さを認めたり、足りない自分を素直に認めれるようになると、解決の方向に向けて進み始めるのです。
もし、あなたも誰かの言葉で腹が立ったり、感情が引き出されたりしたとするならば、なぜそのような感情が出てきたのか冷静に考えて見ませんか。自分の存在や人格が否定されたと思ってしまうとき、実は自分がそのことで傷を持っていたり、自己弁護したくなったりしているのではないかと考られないでしょうか。信仰生活は、神に向き合うことですが、同時にそれは自分自身と向き合うことでもあります。神様は決して私たちを強制的に変えようとはされません。でも、神は聖書を通し、みことばを通して私たちに語ってくださっているのです。そのときに必要なことを一つあげるとすると、「胸襟を開く」ということでしょう。それはすなわち、み言葉に対して「心を開く」ことであり、素直にみ言葉に「耳を傾けること」です。「コリントの人たち。私たちはあなた方に包み隠すことなく話しました。私たちの心は広く開かれています。あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分のこころで自分を窮屈にしているのです。私は自分の子供に対するように言います。それに報いて、あなた方のほうでも心を広くしてください。」(Ⅱコリント6:11-13)
パウロは一時的に心が頑なになっているコリントの人たちに、自分も心を開いているので、どうかコリントの人たちも心を開いてほしいと訴えています。問題は他人ではなく、窮屈にし、また制限をしているのは自分自身なのだということを忘れないようにしましょう。心に湧き起こる否定的な感情を主にゆだねながら、主よ私の心を開いてください。素直に自分自身の弱さを認める心をお与えくださいと祈りはじめましょう。そのときあなたの胸襟は開かれつつあり、自分の幅が広がりつつあるのです。
(プレイバック週報 2003年2月9日『牧師館』より 西田育生師)