「生きた供え物」
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」 (ローマ人への手紙12:1-2)
映画「パッション」を見た方が私に言われました。
「イエス様が鞭打たれ、十字架を負って歩んでいる姿を見ていて,なんとも切ない苦しい気持になりました。言葉にはうまくいえないけれど重い何かが心に残り、なかなかその場を立つ事が出来ませんでした。それから家で祈っていたのですが,イエスの十字架で語られた言葉が甦ってきたんです。十字架に架けられ死ななければならないほど私たちの罪は本当に重いんだとつくづく思わされました。頭でしか自分の罪の重さを考えていなかったのですが,その重さが少し判ったような気がします。同時に今までの信仰は何だったんだろうと考えました。自分の我欲ばかり祈ったり、本当に自己中心で。イエスは私たちのために、命を捨ててくださったのに私はイエスに何を犠牲にしただろう。何にも自分のものは捨てないで,もっとほしい、もっとほしいと祈っているのが自分じゃないかと。」
しみじみと語られる姉妹の言葉に私も思わずうなずいていました。私もいつも中心は自分で,考えている事も自分のことばかりのような気がしました。キリストの気持をどれだけ考えた事があるだろうか。イエスを裏切ったユダやペテロ、ピラトやヘロデ、大祭司やローマの兵隊たち、どの登場人物の中にも自分自身が居るのではないかと思わされます。
イエスはそんな私たちのために十字架ですべてを投げ出してくださいました。自らを私たちの罪のための供え物としてささげられたのです。だからこそ、キリストの愛の偉大さがあるのです。それは「愛」という言葉以外に表現する事は出来ません。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」 (ローマ人への手紙12:1-2)
このイエスの愛に応える生き方とはどのような生き方なのでしょうか。それはキリストがそうされたように、私たちも自分自身を捧げるという生き方を実践する事です。
パウロは、自分自身を生きた聖なる供え物として神にささげるようにと勧めています。今までは自分のために生きてきた生き方を方向転換し、キリストのために自らを捧げて生きるのです。最も私たちが大切にしているものがあるとすればそれを差し出すこと。それが捧げる意味です。あなたの仕事も、家庭も、人間関係も、キリストのために捧げて生きるような生き方をしているでしょうか。仕事に誠実に取り組み、キリストに仕えるように人と家族に仕えて行くのです。キリスト第一。これこそ神を中心にした生き方です。自分の歩みを点検し、生活の全てに神に喜ばれる生き方を聖霊の助けによりさせていただこうではありませんか。
(プレイバック週報 2004年5月23日「牧師館より」 西田育生師)
