「偉大なサーバント」 マルコの福音書10章35-45節 西田育生牧師
イースター(復活祭)に備えてのレント(受難節)の期間です。イエスが生まれてきた目的はまるで十字架にかかるためのようだという声も聞こえます。生まれてきたのは死ぬため、と退廃的にも聞こえますが、果たしてそうでしょうか。イエスの生き方を考えてみましょう。
ウエストミンスター小教理問答集には、「人生のおもな目的は、何ですか」という質問があり「人生のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」という答も用意されています。聖書には「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)とあります。イエスの生まれた目的が記されており、これは私たちの模範になるものです。それでは弟子たちはどうだったでしょうか。ゼベダイの二人の子供、ヤコブとヨハネが求めたことは「栄光の座で一人を先生の右に、一人を左に座らせてください。」(マルコ10:37)と、偉くなりたい、一番になりたい、という思いが動機でした。
「偽りの神々」(ティム・ケラー著)という本には、真の目的を妨げるものについて書かれています。それは「神よりも重要だとみなすもの、あなたの心と思いのすべてを吸収するもの・・・それを失おうものなら生きる価値さえ見出せないと思われるようなもの・・・あなたの情熱、エネルギー、感情、経済力などを何のためらいもなく注ぎ込ませることができます・・・」とあります。つまりビジネスの成功、人からの称賛、社会的地位を維持することなど、神よりも重要視してしまうものです。そういうものに捕らわれると人生の真の目的が失われ、間違った方向へ向かうことになります。「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そう いった類のものです・・・こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(ガラテヤ5:19~21) とあるように自分の欲を第一にしないよう気をつけなければなりません。
それでは主が求められることとは何でしょうか。それは第一に、「偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」(マルコ10:43)ということです。ここでいう「偉く」とは大きな存在と言う意味でしょう。上司が部下に指示し、ピラミッドの頂点に座すのが偉い人のように思えます。そうではなく、部下によりそい、共に考え、共に汗を流して指導するというスタイルを言うようです。サーバントリーダーというのが見直されているようですが、上意下達ではなく部下に仕えるように指揮するということでしょう。
そして第二に、「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20:35)という生き方です。Give and take という言葉があります。人によっては欲張って take and take を望み、得した・もうかったと喜ぶ人もあるかもしれません。そうではなく聖書の教えはむしろ give and give と言えましょう。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(Ⅰヨハネ3:16) とあるように命さえお与えになったお方です。キリストの愛がわかった時、私たちは砕かれ、溶かされ、自然に仕え、与えることができるのです。私たちも友のため、人のため、教会員どおし、互いに仕え合うものになりましょう。
第三に、自己実現から他者実現へということです。第二のポイントと似ています。自分が自分がといって成長するのは間違いではありませんが、そればかりでなく、他者の成長をも願い祝福するとよいのです。他者が成長すると巡り巡って自分にも益となるからです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28) とあるとおり、苦労はしてもそれはやがて益に変わります。今の労苦を喜びましょう。
人生を点で捉えて一喜一憂するのでなく、祝福へ向かっていると信じましょう。偉大なサーバントであるイエスを模範にして、平安な人生を歩みましょう。
≪分かち合いのために≫
- 自分の中に自分を捉えてしまう偶像はないでしょうか。
- イエスのように仕える生き方をするとはどのような生き方でしょうか。
- また、それを具体的に実践するためにどのように行動するでしょうか
今日の暗唱聖句
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、
また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
(マルコ10:45)