「障害を乗り越える」 ヨハネの福音書20章24-31節 西田育生牧師
イエスが墓からいなくなり、よみがえったのを見たのはマグダラのマリアでした。急いで帰ってパウロやヨハネに伝えましたが、簡単に信じてもらえません。イスカリオテのユダは他界しましたので弟子は11人。トマスを除く10人を始めとして何人かが「ユダヤ人を恐れて」(ヨハネ20:19)部屋の中にじっとしていました。するとどこからかよみがえりのイエスが訪ねてきました。10人の弟子たちはこれをきっかけに信じました。トマスはかつて「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。(ヨハネ11:16)と言うほどにイエスのことを思っていました。実は勇敢な男だったのかもしれません。イエスを探してでもいたのでしょうか。部屋の中にじっとしていられずに外まわりをしていたようです。
トマスが部屋に帰ると、10人の弟子たちが「私たちは主を見た」(ヨハネ20:25)と言うとトマスは「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」(同)と言い返します。このように反論するような言い方をさせたものは何でしょうか。
その一つは責任感が強かったと言えましょう。イエスを助けようとせずに他の弟子たちと一緒に逃げたり、身代わりになることもできず、いっしょに死のうではないかとまで言ったのにもかかわらず何もしてあげられなかったのです。そんな自分に対する自責の念が強く、そんな自分を赦せない気持ちがあったのでしょうか。あるいは、あの時なぜ、逃げたのだろう。なぜ、何もしてあげられなかったのだろうかという後悔の念があったのでしょうか。そんな自分をイエスは赦してはくれない、という思い込みもあったかもしれません。このように自分の心の中にあるものが影響を与えます。事実は一つなのに、相手は何とも思っていないのに、自分の心のありようがその事実を曲げて解釈させてしまうのです。イエスの復活を素直に喜べばよかったのです。素直に驚けばよかったのです。会えてよかったですね、と祝福の言葉を掛けることもできたでしょう。そうではなく「・・・決して信じません」(同)と言い放ってしまったのです。「決して」という言葉がトマスの思考や行動を縛ってしまったに違いありません。
「デドモと呼ばれるトマス」(ヨハネ20:24)とありますが、デドモとは双子という意味です。「主といっしょに死のうではないか。(ヨハネ11:16)というほどまでにイエスのことを思っているトマス。その一方で、イエスを裏切った、イエスは自分を嫌っていると思うなど、二面性を露わにしたのでした。
八日後にイエスはシャロームと言ってまた現れました。今度はトマスも一緒にいました。いや、トマスのために現れたと言っていいでしょう。イエスは「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。」(ヨハネ20:27) とトマスと同じことを言います。すべてお見通しだったのです。続けて「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(同)「・・・見ずに信じる者は幸いです」(20:29)と言います。釘の跡を指し示してトマスの思い違いの心を溶かします。すべてのことをご存知のイエスはトマスのことをありのまま受け容れそして愛しています。10人の弟子たちはイエスに実際に会ったので信じましたがトマスには見ずに信じなさいと諭します。しかしトマスは愛されていることが信じられない、即ち愛される価値がないと信じていたのではないでしょうか。自分が赦されていると信じられない、即ち自分は赦されていないと信じていたのではないでしょうか。自分がキリストにあって自由であることが信じられない、即ち自分は自由になってはいけないと信じていたのではないでしょうか。
イエスの愛に触れた時、トマスは心が解け「私の主。私の神。」(同20:28)と告白します。他人の神でもあなたの主でもなく「私の」なのです。遠くにいる神ではなく身近に寄り添ってくださる神なのです。イエスから直接、赦しの言葉をもらい認められることでイエスとの関係が深まりました。
聖書が書かれたのは「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため・・・」(ヨハネ20:31)なのですから、私たちもそのような心の障害となるものを取り除き、イエスのことを素直に信じ、いのちを得るものになりましょう。
≪分かち合いのために≫
- 自分の心の中にある障害とは何でしょうか?
- 今日の個所から「信じる者になる」ために、自分に適用することはどのようなことでしょうか。
今日の暗唱聖句
「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』」
(ヨハネの福音書20:29)