■マルコの福音書 1/10/2010
すべては、火によって、塩けをつけられるのです。塩は、ききめのあるものです。
しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。
あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。
(マルコの福音書9:49-50)
「塩け」を保つことの大切さが語られています。ここでの「塩け」とは神を信じる者としてふさわしく生きる生き方を指します。
神を信じているといいながら、人につまづきを与えるような原因を与えているならば、その原因となっている手や足、目を切って捨てよとイエスは言われました。それはまさに「塩け」が無くなっている状態を意味しているのです。
「塩に塩けが無くなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。」とイエスは言われました。塩としての役割はその塩けにあるのであり、その塩けが無くなれば、塩としての意味をなさなくなります。また、その時点でそれは塩と呼べるものはないでしょう。
同様に、キリスト者も神を信じる者として、周りの人々に、世の光、地の塩となるような生き方が求められているのです。その存在価値を見失ってしまったらなら、キリスト者としての意味がなくなってしまうのです。
ではどのようにしてその塩けを保てばよいのでしょうか。「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」とありますから、塩けを保つには「火」によらなければならないことがわかります。ここでの火とは、神の清めの火、聖霊の火と解釈すればよいでしょう。
神様を信じる者としてわたしたちが第1に取り扱われる事は、砕かれると言うことではないでしょうか。古い自分が生きていると、キリスト者としての体裁は整っても中身が変わっていないことになります。わたしたちの古い価値観が砕かれ、プライドや高ぶりが砕かれて初めて、神様に用いられやすい者に変えられるのです。神の清めの火によって古い自分が砕かれ、神の聖霊の火が内に宿ることにより、塩けの保たれた存在に変えられるのです。
そのときに人のつまづきではなく、人と和合し、助け合い、補い合うことの出来る、主にある共同体が形成されていくのです。自己主張ではなく、自己犠牲こそが塩けを保つ印なのです。