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◆主と共に生きる◆信徒の証し

NO.313 2023.07.02

■黙想エッセイ

 

建設現場で働いて生計を立てようとしてたある青年の話を聞いたことがあります。彼には建設関連の技術はありましたが、手元にお金があまりなく、ディスカウントショップで必要な工具を買いました。そして、求人サイトを通して仕事を見つけました。すべてが順調にいっているかのように見えました。しかし、2日ほど過ぎ、作業班長が来て彼の仕事を点検していた時のことです。若者がした仕事には、どれも少しずつ問題があることが明らかになったのです。熱心に仕事をしたのは確かでしたが、彼が任された作業は、もう一度やり直さなければなりませんでした。会社としては費用と時間をかなり浪費することになりました。 作業班長は青年を呼んで「君が最善を尽くしたということは分かっている。しかし、今は君を首にするしかない状況だ。会社の損失が大きすぎて、私としてもどうしようもないんだ」 と言いました。若者に何が言えるでしょうか。
だれよりも熱心に仕事をしましたが、どれにも問題がありました。しかも、原因も分からないため、彼が仕事をやめることは避けられませんでした。任された仕事を正しく処理できなかったことには、言い訳の余地がなかったからです。
青年は工具をまとめて現場を離れようとしました。すると、作業班長がその青年を呼び止めました。「ちょっと待て、きみの巻尺を見せてくれ」と言いました。班長が自分の巻尺を若者のものと並べて比べると、問題の原因が一目で明らかになりました。「これが問題だったんだ。この巻尺は目盛りが間違っているんだ。これからは基本を無視してはいけない。基本が間違っていたら、結果は言うまでもないだろう」彼の巻尺には、一見しただけでは分からないほどの小さな誤差があったのです。ほんの少しでも目盛りに誤差のある巻尺を使っていれば、その誤差はだんだん大きくなり、最後には取り返しがつかなくなってしまうのです。
人生もそれと同じです。ほんの少し曲がっていただけだとしても、その曲がった道を歩き続けるなら、時間が経つにつれ混乱は大きくなり、悲劇的な破局へと近づいていきます。途中で気がついて、真っ直ぐの道を歩もうといくら努力しても無駄です。不正確な前提で出発すれば、必ず間違った結果に行き着きます。基本的な仮定が間違っているなら、結果も間違ったものとなるしかありません。問題を解決するためどれだけ努力したか、関係ありません。

 

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