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◆主と共に生きる◆信徒の証し

NO.343 2024.01.28

■証し

 

20代で洗礼を受けた時、喜びにあふれ、青年会の仲間同士で学び合う時を過ごしました。そんな中、信仰の長い仲間から「御声を聞いてそれに従った」といった話を聞き、自分にない経験でしたから「御声はどう聞こえるの?」と問い、日常的な実生活と違う異次元の出来事のように聞いていた思い出があります。
 その後、長年信仰を続けていく中で心の中に変化をもたらす霊的経験が、時々神様から具体的に与えられます。私の場合は、福祉作業所で働いていた頃に、その仕事のやり方について、理事や先輩から考え方を問題視され、仕事をもう続けられないと思った時でした。精神的にも追い詰められていましたが、転職の見通しはなく、又自分の考えを変えられないまま仕事を続けていました。私は信仰が支えでしたから、通勤途中にあった教会の庭で毎朝祈りを続けました。その中身は「今の人間関係の苦しみが取り除かれるように助けてください。」というものであり、苦しみは退職する迄続きました。しかしやめる2年前に採用された年下のクリスチャン男性が私の職場に配属され、一緒に仕事をするようになったのです。彼はとても熱心なクリスチャンで、職場の人を教会に誘っていました。仕事でも、新規立ち上げ事業の作業所作りに様々なアイデアを出し、私はとても助けられていました。幹部から私への厳しさは続いたものの、彼の入職で新規事業が始まり、私は何事もなく退職できました。この神様が助け手を送って下さった出来事も、当時渦中にある私には見えていなかったのです。苦しみが除かれなくても、イエス様が私に助けの手を差し伸べ、私の重荷を担ってくれていたことは、有名な二つの“あしあと”の話のようです。ある信仰者が死後人生のすべてを振り返る時、砂浜にある二人の足跡が、ある時一つしかなくなっているのに気づきます。その時イエス様が最も大きな支えで、苦しみをすべて担い彼を背負ってくれていたことに気づかず「私が一番苦しい時に、私を一人で歩かせたのですか?」と言ってしまう自分だったのです。
 主の御声を聞こうともしない私、道を踏み外す私に助けの手を差し伸べずにはいられないイエス様が、あふれる愛をもって呼びかけ続けておられる今、私の耳に聞こえてくる御声は「私のしていることが分かったら、あなたも私があなたにしたような者に変わりなさい。」という言葉なのです。(小沼 敦史)

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