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◆主と共に生きる◆信徒の証し

NO.406 2025.04.13

■黙想エッセイ

 

イスラエルの民は、荒野で過越の祭りを守りました。彼らは40年間、荒野で生活しながら、一刻も早く約束の地カナンに入りたいと願っていましたが、過越の祭りを守るために途中で歩みを止めました。1週間、行進を中断し、神様を礼拝しました。巡礼者は歩む方法だけを学ぶのではありません。歩みを止める方法も学ばなければなりません。それは神様を主と認め、礼拝するためです。神様の救いを覚えることにより、今日の困難から私たちを救い出してくださる方はだれであるかをはっきりと知るためです。全能の神様を見上げて私たちの歩みを止めるとき、その神様の御前で私たちの人生の問題は止まるでしょう。
聖書は、新たな過越の祭りが私たちの人生において起こり得ることを予告しています。私たちが望まない様々な理由で止まらなければならないときがあります。病気もそうです。その時間は、本当に辛く苦しいものです。しかし、病が重いほど、また死の脅威が強いほど、その時間に死よりもはるかに偉大な神様に出会うようになります。その日、私たちが出会う神様は死に打ち勝たれた神様です。その苦しい時間がむしろ、私たちを死と恐れから救い出してくださる全能の神様を体験する過越の祭りとなるのです。それが、キリスト教信仰の奥義です。今、病気や苦難があなたを取り囲んでいるなら、過越の祭りを体験する機会となるように祈り求めましょう。歩みを止めることは停滞ではなく、主とともにさらに力強く歩むための準備なのです。

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