「光に導かれる」
「…しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ3:19-21)

一匹の蜂が教会に入って来ました。飾られている講壇の花の香りに誘われたようです。ちょうど記念会でしたので、色とりどりの花が講壇を飾っていたのですが、その蜂は自分がその花の蜜を独り占めできたかのように花から花へ飛び回るのです。なかなか外に出ないものですから、どうしたものかと思案していました。一計を案じて、先ず教会の電気を全て消しました。前の講壇から順番に電気をつけ後の電気を消しと、入口の電気までつけ、その後玄関をさっと開けました。すると、蜂は明かりに吊られて前から入口まで飛んできて、外の明るい日差しの中へさーっと飛び去っていきました。すこしほっとしましたが、光に寄せられて集まる虫の特性を再確認させられました。
イエスキリストはご自分を世の光と言われました。私たちはこのキリスとなる光に誘われ、導かれて救われたのです。しかし、同時に救われた私たちはいつもこの光であるキリストを見て歩くことが求められます。そうしないと、1人で闇の力に対抗することはできないからです。蜂は、敏感に光に反応して外に出ましたが、私たちは光なるキリストへの反応が鈍くなったりはしていないでしょうか。いつも光を見て歩んでいるはずなのに、いつの間にか光に照らされることをおっくうがったり、恐れたりしてはいないでしょうか。
光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
(ヨハネの福音書3:19-21)
この世のある人たちは光を極端に嫌います。それはこの御言葉が語るように、「その行いが悪かった」からです。光を憎み、自分の悪い行いが暴かれるのを恐れます。そして「類は友を呼ぶ」と言いますが、悪口を言い合
う仲間はやはり集まってしまうのです。
しかし私たちは、闇を愛し、闇を慕うものではなく、光であるキリストを愛し、このお方の元に絶えず集い集まるものです。この光なるキリストの前に出て私達の心の中を絶えず探ってもらいましょう。光に照らされると私達の間違ったところ、こだわり、闇の部分が明らかにされ、悔い改めへと導かれるのです。このことが大切なのです。
礼拝に出席をすることはこの光なるキリストを敬愛すると言うことです。もし教会を休むことが当たり前になったり、何の自責の念も覚えないとするならそれは闇が自分を覆いつつあるということを覚え、危機感をもちましょう。
どんなに辛く、苦しいことがあったとしても、光なるキリストの元で自分を見つめることです。そうすると必ず神からの慰めと励ましを受け、新たなる力に満たされます。また、私達のずれている所も見えてくるようになるのです。このキリストの光を絶えず見上げて礼拝をささげてまいりましょう。そうすればどんな闇も私たちを覆うことはないでしょう。なぜなら闇は光に決して勝つことはできないのですから。 (プレイバック週報 2002年10月13日『牧師館より』西田育生牧師)