「キリストの愛の中に生きる」
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」 (Ⅰコリント13:4-8 )
この御言葉をじっくりと味わって見ましょう。この箇所はよく結婚式の時に朗読される聖書箇所です。しかしこれは結婚する人だけではなく、私たち全てのものにあてはまる愛の本質が記されているところです。
愛が擬人的に表現され、愛の性格がよく表われています。愛とは単なる概念ではなく、愛すると言う行為を通して実践されるものだということがわかります。今一度「愛」と書かれているところや各文節の前に自分の名前を入れて読んでみましょう。あるいは「わたし」と入れ替えてもいいでしょう。
「私は寛容であり、私は親切です。また私は人をねたみません。私は自慢せず、私は高慢になりません。・・・」どうでしょうか?どんな感覚をもたれたでしょうか。何か今の自分ではないような気がしてきます。自分で言いながら何か気恥ずかしく感じてしまうほどです。ここで表現されている愛とかけ離れたとこりにいる自分を見出してしまいます。また、自分たちが使う愛の意味が如何に感傷的なもので,うつろぎやすいものかがわかります。
以前、未信徒の方ですが、結婚を控えた方が教会に来られたので、この聖書の箇所を一緒に読んでその意味をお話したことがありました。するとその方が顔を曇らせて「ここで表されているような愛は私の中にはありませんよ。恐らくこんな愛を持つことは難しいのではないでしょうか。」と言われたのです。これは正直な告白です。確かに、私たちの中にこのような愛を持つことは私たち自身では不可能です。
もしそれが可能であるとするならばキリストにあって可能だといえるでしょう。なぜなら、キリストの実践された愛こそがこの愛であり究極の愛がキリストの十字架において具現化されました。このキリストの愛を私達の内に満たしていただくことによってのみ可能となるのです。
またもし、それができたとしても胸を張って「私はこの愛を実践している。」と自分で言うべき性質のものではありません。なぜなら自分の力ではなく、キリストの愛と聖霊の力によってのみその愛の実践は可能だからです。
ですから、むしろ、「自分の力ではありません。キリストの愛の中にとらえられているので、キリストの愛が可能にさせてくださったのです。私ではありません。キリストです。」こういえたときキリストの栄光が現されるのです。キリストの愛に生きるために、私たちは自らをキリストに差し出しキリストの愛の中で満たしていただきましょう。 (プレイバック週報 2004年6月20日「牧師館より」 西田育生師)
