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NO.909 2026.01.18

「クリスチャンの舌」

 

「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに渡しを呼び覚まし、 私の耳を呼び覚まして、私が弟子として聞くようにされる。」(イザヤ50:4)

 

先日、ある方がご病気の可能性がありました。しかし診察の結果、今の段階で病気が見つからなかったとお電話で話してくれました。私や教会の皆さんがお祈りをしていたこともあり、イエス様が祈りを聞かれ守ってくださったことに感謝されていました。その後、「先生には心配をかけてばかりでごめんなさい。とても感謝しています。先生も体に気をつけてくださいね。」と仰っていました。正直、私がしたことなど何もないですが、そのような温かい言葉を投げかけてくれたことで私がとても励まされました。その出来事から何気ない一言でも相手を励まし助けることができるのだと感じました。しかし逆に何気ない一言でも人を傷つけ、失望させることもあります。
イザヤ書には、神様が私たちクリスチャンに「弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え」とあります。神様は私たちに弟子の舌を与えられたとあります。その舌は疲れた者を励まし、慰め、建て上げる言葉です。私はこの御言葉を思う時、まず自分自身が弟子の舌をもって語っているのかと思うことがあります。自分の言葉が励ましや慰め、徳を立て、人々を建て上げる言葉を用いているのかどうなのかを思います。そしてできる時もあればできない時もあることを見ます。でも出来ることなら、クリスチャンとして与えられている弟子の舌を成長させたいと願っています。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい」(エペソ4:29)と言っています。
私たちは人に対してどのような動機で言葉を発しているでしょうか。相手を愛する心で言っているのか、それとも悪意から相手に不快な思いを与えようと言っているのかは天と地ほど差があります。特に教会の共同体の中で人を非難し、批評し、裁く言葉を言うのは簡単なことです。揚げ足を取ったり、貶めようとする言葉はクリスチャンとしての品格を落とすことになります。それは私たちのために十字架で死んでくださった主イエスキリストに唾を掛け、鞭打つことでもあります。ですから、私たちはクリスチャンとして口に出す言葉を気をつけるべきです。本当にイエス様を愛しているなら、イエス様が言われたように、「隣人を自分自身のように愛しなさい」という戒めを心に置いて人々と関わり合うことではないでしょうか。もし自分の感情から悪意があろうとなかろうと相手を失望させ、悲しませる言葉を発するなら、その人の舌はまだ幼子ではないでしょうか。
私たちクリスチャンは何を目指していくのでしょうか。聖書から絶えず個人個人が神様の御声を聞いていかなかればなりません。もしキリストの弟子(=クリスチャン)として歩むなら、私たちは弟子の舌が成長していくことを日々トレーニングしていかなければなりません。それゆえ、イザヤ書50章4節後半に、「…私が弟子として聞くようにされる」と言っています。何を聞くのか、誰から聞いていくのかは当然、神様の御言葉である聖書から聞いていき、またイエス様から学んでいくことです。
教会はキリストの体です。その体を通して頭であるイエス様の栄光が現わされるためには、私たちは自分の舌を弟子の舌として成長させていきましょう。もし教会が幼子の舌の集合体なら、いつも非難、批判、悪口、言い争いをし、教会は全く塩気も光もなくなります。一人ひとりが愛をもって相手に心を配り、自分の言葉遣いを正すなら、教会はオアシスのような場所になっていきます。その使命が教会の一人ひとりに与えられているのです。

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