>>バックナンバー一覧

2024.07.21

「相手の境界線を敬う」

 

「2 互いの重荷を負い合いなさい。 そうすれば、キリストの律法を成就することになります。…5 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。」 (ガラテヤ6:2,5)

 

私たち人間は社会的動物と言われ、社会を形成していきます。そして社会の構成要素は人間です。しかし人と人のつながりである社会には、様々な人間関係のトラブルが付き物です。夫婦間、親子間、友人間、会社の同僚同士などで大小さまざまな葛藤やトラブルを抱えています。そして教会の中でも同じようなことが起こります。箴言14:4には、「牛がいなければ飼葉桶はきれいだが、豊かな収穫は牛の力にある。」とあります。このみ言葉を思い描いてみてください。飼葉桶がある牛小屋に牛がいるなら、どんなに日々清掃しても汚れてしまうものです。しかしもし牛小屋に牛が一匹もいなければ飼葉桶が汚れるはずもありません。けれど牛のいない牛小屋は豊かな収穫を牛の力によって得られることはありません。
教会もある意味、牛小屋を汚してしまう牛のような罪人たちの集まりなので、人々が集うならその中で様々な汚れの跡が残ります。そのことだけを見ると汚いと思われるでしょうが、豊かな収穫はその所にいる人々の力が必要となります。そして飼葉桶に関して、牛と人間には決定的な違いを持つことができます。汚れを認めて改善できる点、汚さないように対処できる点が違うのではないでしょうか。
そのためには、人間関係において「境界線(バウンダリー)」を持つ必要があります。教会はコミュニティと表現することができます。コミュニティとは、共通の目的や興味、つながりで結び付けられた集まりです。その場所に集う人々は頭なるキリストに結び合わされていますが、バックグランドも個性や感受性、賜物も違います。「自分がしてもらって嬉しいこと」と「相手がしてもらって嬉しいこと」が同じだとは限りません。
キリスト教書籍で「境界線」という本が世界的にベストセラーになりましたが、その本の中で「互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」(ガラテヤ6:2)。また、「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。」(ガラテヤ6:5) この二箇所のみ言葉が引用され説明されているページがあります。前者のみ言葉は「互いに対する私たちの責任」を表しているのに対し、後者のみ言葉は「その人自身が負う責任」を表しています。前者の「重荷(burdens)」はギリシア語で「過剰な重荷」を意味し、一人では押し潰されてしまうため助けを必要とします。後者の「重荷(load)」はギリシア語で「荷物」、つまり「日々の労苦という重荷」を意味します。この荷物は日々の荷物でナップザックで運ぶことのできる荷物です。自分自身の感情、態度、行い、そして神が私たちそれぞれに与えられた責任は、自分で対処する必要があり、それには努力が必要とされます。私たちはこの重荷に関しても、み言葉から吟味し実践していく者とされたいです。何より私たちの重荷を唯一背負うことのできるお方はイエス様だけです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28) まず人ではなく、イエス様に委ねることです。
また互いの境界線を尊重し合いましょう。自分の境界線を尊重して欲しいと願うのなら、相手の境界線も尊重すべきです。重荷を押し付けてしまうなら、それは相手に負担を与えることであり、自分の責任を相手に負わせることになります。「2何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。3それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:3-4) 
相手の境界線を大事のすることは相手を愛することです。相手を慮る者となっていきましょう。

 

>>バックナンバー一覧