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2018.08.05

「心を決められますか?」    ルカの福音書9章51-62節   西田育生牧師

 

今週の聖書箇所では、イエスご自身が十字架にかかる時期が近付いてきたと悟った時、イエスとその弟子たちがエルサレムへ向かおうとする道中での話です。
 一行は、まずサマリア人の町に入りましたが、サマリア人はイエスのこと受け入れませんでした。これを見て、弟子のヤコブとヨハネが「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(ルカ9:54)と言いました。これは、イエスの権威を笠に着る言葉でもあると言えるでしょう。イエスに従うということは弟子たちにとって誇りであり、そうすることでイエスの恵みを享受できると思っていたからでした。私たちも神の恵みや祝福を受けていますが、それは自分を誇るためではありません。その恵みに応えて主に仕えるということなのです。信仰に熱心になればなるほど人を裁く心が起こりがちですが、そうならないように気をつける必要があります。
 それから、一行は別の村に入り3人の人に会いました。まず一人は、イエスに「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」(同57)と言います。それに対しイエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」(同58)と答えましたがこれはどういう意味なのでしょうか。イエスは、この人には口で言ったほどの覚悟がないと見抜いておられていたのです。イエスは同じ9章の中でこのようなことを言っています。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て…わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」(同23-24) イエスに従うとはそのようなことです。すなわち、自分の思いや事情に固執せずにイエスについていくということなのです。また別の個所でも「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ1:6)とあります。主は全てを完成させてくださるお方であり今はその途中です。イエスに従っていくところに労苦は多いかもしれませんが、主が祝福への道を開いて下さると信じましょう。
 二人目は、イエスのほうから「ついていきなさい」といったところ、「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」(同59)と答えた人です。それに対してイエスは「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」(同60)と言われました。ここで学ぶべきことは、イエスが来なさいと言われた時に応答するということです。すべてに「神の時」(伝道者3章)があります。その時を活かすということが非常に大事です。そうするところに、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)とあるように、神の恵みと祝福が与えられるのです。
 そして3人目は、「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」(ルカ9:61)という条件付きで従う人でした。「~したらついて行きます」というのだったら、次から次へと条件が出てきて決してその時は来ません。それに対しイエスは、「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(同62)と言いました。これは「一度手にしたら二度と後ろを振り向くな」という意味です。もちろん後ろ髪を引かれることはあるかもしれません。しかし、そのような思いを手放し、イエスについていくと心を決めた時に、神が大いなる御業をあらわしてくださるのです。
 私たちと共にいて天国へ導いてくださるのはイエスただお一人です。イエスに従うということは苦難が伴うこともあります。しかし、イエスに従い主の働きを担っていくとこころに、恵みと祝福がもたらされるのです。このことを覚えていきたいと思います。


≪分かち合いのために≫

  1. 自分の中にある信念ゆえに、人を裁くことはないでしょうか。
  2. イエスに従おうとした三人のうちの自分はどのタイプに近いでしょうか。
  3. イエスに従うとはどのようなことなのでしょうか。

 

 今日の暗唱聖句

 

「するとイエスは彼に言われた。
『だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。』
(ルカ9:62)

 

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