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2019.02.03

「時代を見極める」   ルカの福音書12章54-59節   西田育生牧師

 

人生は旅であるというように、信仰の歩みも同じことが言えます。なぜなら、そこに様々な気づきや発見があるからです。私たちは神のことを知っているといいながら、本当の意味で理解していないのではないでしょうか。
 例えば、群衆と弟子の違いもそうです。群衆とは、自分の願いを聞いてもらいたい人や、野次馬的な人たちであるのに対し、弟子とは、イエスに従ってきなさいと言われて従っている人たちや、自分を捨てキリストに従っている人たちのことを指します。私たちも、イエスの弟子になったとはいえ、被害者意識から抜け出せずに、群衆的な生き方が残っているのではないでしょうか。イエスの弟子という生き方は、様々な困難に遭遇する可能性もあり、ある意味挑戦的な生き方です。しかし、そこには、群衆的な生き方では味わうことのできない、恵みや祝福もあるのです。
 「偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。」(ルカ12:56-57)と、あります。ここで私たちに、時代を見極める、つまり何が正しいのか判断する、ということが問われているのです。それは、どのようなことでしょうか。「あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。」(同58)という事が意味するのは、告訴する人が来ていることを、認識するということです。つまり、今の実情は告訴するものと裁判所に向かっている状況であるため、途中で和解する事が求められているのです。ですから、私たちも被害者意識から脱却する必要があるのです。ここでいう、裁判官や役人とは、神のことを意味します。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」(ヘブル9:27)とありますが、私たちは、神の前に死ぬことと、死んだ後に裁きを受けることは、すでに定まっているのです。ですから、私たちが天国に行くためには、私たち自身が犯した罪を認め、悔い改めることが求められているのです。罪を告白し、赦しを受けるときに、神の御業があらわされます。イエス・キリストがこの世に来られたのは、まさにそのためなのです。
 ですから、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)とあるように、今こそ、赦しを請い、救いの時であるということを知ることが必要なのです。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18-19)とは、今年の御言葉です。心を開く人には、主の福音が伝えられ、捕らわれ人は解放され、盲人は目が開かれ、しいたげられている人は自由にされるという、恵みの時代は。既に始まっているのです。神はそのような時を用意しておられます。ですから、『「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。』(ヘブル3:15)とあるように、私たちは神からの語りかけを先延ばしにせずに、決断することが求められているのです。
 そうした決断の積み重ねが、今という時代を見極めて生きていくということです。ですから、神との関係を見直し、神の御心にかなった生き方をし、イエスと共に歩んでいくものとなっていくものになっていきましょう。


≪分かち合いのために≫

  1. あなたは主イエスの弟子ですか?
  2. 「自ら進んで、何が正しいかを判断する」とはどういうことでしょうか?
  3. 今日あなたがすべきことはどのようなことでしょうか?

 

 今日の暗唱聖句

 

「偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。」(ルカ12:56)

 

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