2025.04.20
「十字架を負う生き方」
「…自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)
先日、ある先生とzoomで交わりを持っていました。その中で改めてクリスチャンとはどのような人ですかという質問を受けました。先生は、クリスチャンとは“キリストの弟子”だと言われました。この世の中の弟子は、〇〇の弟子として師匠の生き様を身近で学び、自分も同じように生きます。キリストの弟子であるクリスチャンも私たちの師であるキリスト・イエスご自身の生き様を学び、同じように生きる者たちがクリスチャンです。私たち一人ひとりはイエス様の言葉や行いを見習い、歩む者へと皆が召されていることを覚えたいと思います。
人生でイエス・キリストに出会うというのはかけがえのない出会いであり、人生が180度変えられる体験です。イエス様に真に出会うのなら、変えられない人はいません。そしてイエス様の十字架と復活によって与えられる新しい命を体験した人々の人生はNew Life、新しい人生となります。そして私たちはキリストの弟子=クリスチャンとして、「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)とイエス様は招いておられるのではないでしょうか。
イエス様が実際に十字架を負われた時、その十字架を背負った人がいました。クレネ人シモンという人物です。
「兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた」(マルコ15:21)。彼はクレネと呼ばれる北アフリカにある町に住んでいました。クレネには多数のユダヤ人が居住していたと言われます。しかしシモンが離散したユダヤ人であったのか、それとも改宗したギリシア人やアフリカ人であったのか分かりません。クレネはエルサレムからおよそ1500km離れた場所ですが、過越祭の祝いの時期に二人の息子を連れ、シモンは巡礼に来ていたのです。ちょうど過越の小羊が屠られる過越祭のクライマックスの日、彼は罪人の十字架を自分が一緒に背負うとは全く思っていなかったでしょう。十字架を背負い、ゴルゴダの丘に向かっていたイエスの傍にたまたま居合わせていました。すると、鞭打ちで肉体的な苦痛と疲労によって十字架を背負うことが難しくなっていたイエスの代わりに、ローマ兵から十字架を背負うように命令されたのです。当然ローマの命令を断るわけにいかないため、彼はイエスの十字架を代わりに背負いました。周りにいた人々は自分が指名されなかったことに内心ホッとしたでしょう。誰も十字架など背負いたくないからです。しかしシモンが背負った十字架は、イエス・キリストの十字架です。人類の罪を贖い、救いを成し遂げるための十字架を共に背負ったということは、大変光栄な奉仕だったのです。そして主イエスの十字架を共に背負ったシモンの姿こそが、キリストの弟子とされた者たちの生き方です。私たちはその招きに対し、日々一人ひとりが応答することを求められています。
奉仕には様々な奉仕がありますが、奉仕の心構えや姿勢において、その土台に「主イエスの十字架を共に背負う」というメンタリティーが必要ではないでしょうか。また教会はイエスの十字架を共に背負う共同体です。互いに重荷を負い合うことのない教会は、気をつけなければ教会らしさを失い、会員制クラブのようになります。