2025.04.13
「十字架の赦し」 ルカの福音書 23章 33節-47節 井上 圭 伝道師
受難週です。イースターを前にして十字架のイエスについて見てみましょう。
「『どくろ』と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左につけた。」(ルカ23:33)ここはゴルゴダの丘やカルバリの丘とも呼ばれ多くの犯罪者が十字架につけられる所で、エルサレムに出入りする人々にはそれが見えました。イエスの十字架でもっとも重要なのは、イエスは被害者ではなく自らの意思だったことです。「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。…」(ヨハ10:18)ユダヤ人指導者やローマの兵士たちが命をとったかに見えましたが、そうではなく自らその命を捨てて下さいました。それは私たちに対する愛の故です。その愛を理解した人は必ず変えられます。十字架がどれほど価値のあるものかを知る時に大胆にその喜びを伝える人になれます。
イエスは十字架につけられてから死なれるまでに7つの言葉を発せられました。その一つです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)これはイエスのとりなしの祈りです。それは同時に私たちのための祈りです。この聖句の「彼らと」は十字架の意味を分からない人のことでした。イエスは罪の赦しを受け取って欲しいと願われました。それは同時に父なる神の愛であり、イエスを地上に送られた目的でした。そしてそれは私たち一人一人のためでもあったのです。
イエスの十字架でのとりなしの祈りは旧約の預言者たちを通して預言されていました。「…彼が自分のいのちを死 に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。』」(イザ53:12)イエスは着ていた衣服も取り上げられました。イエスは最後の衣服や自分の血の一滴さえも手放し、完全に貧しくなりましたが、それはイエスが貧しくなることで私たちがキリストによって富むためなのです。イエスが全てを捨て貧しくなってくださったのは私たちが神の国の豊かさを得るためです。「…主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(Ⅱコリ8:9)キリストを得る時にすべてを得ていることを感謝しましょう。
「『おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ』と言ってイエスを嘲った。」(ルカ23:37)イエスは十字架から降りようと思えば降りられましたが、神の御計画を成し遂げるため、そして私たちへの愛の故にあえて十字架に留まってくださいました。「十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり…もう一人が彼をたしなめて言った。…」(ルカ23:39-40)十字架上とはいえイエスと過ごす中で一人が変えられました。彼は自分の罪を認めました。すると「…『まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。』」(ルカ23:43)彼はイエスのとりなしの祈りを聞いて最初に信じた人になり、神の最高のギフトを受け取りました。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(Ⅰコリ1:18)私たちは二人の犯罪人のどちらかのタイプに分けられます。悔い改め、パラダイスの恵みにあずかるものになりましょう。
「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。』…百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ…」(ルカ23:46-47)イエスは罪の返済を全て支払い終わり「完了した」(ヨハネ19:30)と、父なる神の救いのみ業を成し遂げられました。その一部始終を見ていたのが百人隊長でした。イエスの亡くなる瞬間を見て正しい人だったと告白し、イエスを信じる者に変えられました。その後伝道に励み殉教したと言われています。
十字架こそ力です。ですから、私たちは十字架をいつも仰ぎ見て、神の赦しと愛を受け取って行きましょう。その時、十字架を宣べ伝える者へと変えられて行くのです。
≪分かち合いのために≫
- 「父よ、彼らをお赦してください。彼は自分が何をしているのか分かっていないのです。」 イエス様のとりなしの祈りを自分のこととしてどのように受け取られましたか?
- イエス様の十字架の意味を知る者として、改めてどのように歩んでいきますか?
今日の暗唱聖句
「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」 (コリント人への手紙第一 1章18節)